【祭神】正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
【由緒】1562年柏原城主瀧野十郎吉政が勧請。天正伊賀の乱で焼失後1593年再建。「決戦之地柏原城」の碑が立つ。
現在は、赤目町柏原区の氏神さんであるが、国家管理の時代は村社であった。それ以前の神仏一体の時代は東光寺の鎮守社で、西方を向いて右の方に寺院、左の方に神社と、一対になっている。
社伝によれば、永禄5年(1562)当地の仕官滝野十郎吉政が、大和吉野山にある、勝手神社より勧請したことがわかっている。その後、天正9年(1581)10月天正伊賀の乱で、伊賀国内の社寺はその殆どが焼失し、当神社も同様であったと考えられる。
その後、村人らによって新たに社殿が造営され、文禄2年(1593)の造営時の棟札が伝わっている。
秋祭りは、11月2日の宵宮、3日の本宮で、両日共、獅子神楽が奉納される。
また、名張大江氏の祖、貞基親王さまを祖先として、滝野城内において三宮神社(親王さまは、清和天皇様の第三の皇子さまにあたる)にお祭りしていましたが、現在は本殿内に合祀されている。
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